路上ライブと岡本太郎
高校2年生の頃。楽器屋の聖地と呼ばれる御茶ノ水へ初めて行った。
神奈川の田舎で育った高校少年にとって「御茶ノ水」は未開の地であり、それはもうドキドキしながら行ったのだった。
それまでは知り合いに借りたアコギで練習していた僕は、コンビニのバイト代を貯めて自分のアコギを買うべく訪れた。
当時は音楽漫画「BECK」が流行っていて、主人公が自分のギターを買う時に「このギターが自分のことを呼んでいる気がする」という描写があり、しっかり感化されながら俺のことを呼んでいるギターを見つけてから14年。
ギターの弦を変える時に指板をみると洗濯板みたいになっていた。
指の力で、木がここまでなったと思うと少し感慨深い気持ちになった。よく弾いてきた。そして、よく耐えてきた。
新しい弦を張って、夜は町田駅に繰り出し路上ライブをしに行った。
冬の路上は空気がひんやりと張り詰めていて、駅前の雑踏、いろんな音が飛び交っている。
ギターと声だけの”弾き語り”という表現は、何もないところに音を発する。
当然だけど、ギターを弾く右手を止めれば演奏は無になり、歌を止めればメロディは無になる。
だから自分という存在に対して嫌でも自覚的になるし、それは同時に自分の弱さに直面する瞬間でもある。
快楽よりも苦しみが占める。
そんな路上ライブの翌日に「岡本太郎美術館」に行ってきた。
ずっと行きたいと思ってて先延ばしにしていたのだけれど、天気も良かったので駅から少し遠い道のりを1人でテクテク歩いた。
岡本太郎の作品をみながら、無意識に感想を言語化しようとしている自分に気がついた。
言語化することで腑に落とそうとしている。
意識的に答えを考えないようにした。
芸術や表現は「答え」でなく「問い」なのかもしれない。
何か考えに煮詰まった時に、また行こうと思う。